グローバルな時代の雑学・豆知識・トリビア・クイズ

NIクリップス

NIクリップスとは




―2009年9月10日版―

NIクリップス:クイズ

【キーワード:
温暖化、北極、食料危機、食肉生産


Q1:1年中海氷に覆われている北極海。その氷の面積は、毎年夏に減って冬に増えるということを繰り返してきました。しかし近年地球温暖化の影響によって、北極海に氷のない夏が訪れることが確実になっています。では、それはいつまでに起るでしょうか?

1)5年以内   2)10年以内   3)20年以内    答えはこちら

2009年7/8月合併号「北極の未来・環境・先住民」


Q2:豚肉1キロを生産するのに必要な飼料は7キロ、鶏肉の場合には4キロ(どちらもトウモロコシ換算)ですが、牛肉の場合には何キロの飼料が必要になるでしょうか?

1)3キロ   2)7キロ   3)11キロ    答えはこちら


2008年12月号「世界食料危機 ─ 飢餓の構造と解決策」

 



―2008年11月27日版―

NIクリップス:クイズ

【キーワード:
温暖化、トイレ、海洋汚染、プラスチック


Q1:氷河が溶けたり、海水面が上昇したりと、地球温暖化による影響をニュースでもよく聞くようになりました。その原因となる二酸化炭素の排出についての問題です。東京から大阪へ行くのに新幹線を使うと、その二酸化炭素排出量は1人あたり4.8kgになります。では、飛行機を使った場合には1人あたり何kgになるでしょう?

1)1.2kg   2)24kg   3)48kg    答えはこちら

 →「旅を考えるためのネタ帳」(NIジャパン)より
2008年3月号「人と地球にやさしい旅へ 〜 観光インパクトと地球温暖化を考える」

Q2:現在の日本では、トイレがなくて外で用を足す家などはほとんどないと思いますが、世界を見るとだいぶ事情が違います。2004年の時点で、アフリカではトイレのない人が約5億人いました。では、この時アジアでは、トイレのない人は何人いたでしょうか?

1)9億3,000万人   2)19億3,000万人   3)29億3,000万人    答えはこちら


 →「トイレの話をしよう」より
2008年8月号「途上国のトイレ事情 ─ トイレがない26億人の人々」

Q3:海の汚染が世界各地で問題となっていますが、世界の海鳥のうち、プラスチックの破片を飲み込んでしまった海鳥の割合はどのくらいになるでしょうか?

1)36%   2)46%   3)56%    答えはこちら


 →「プラスチックは永遠に ─ その事実」より
2008年9月号「プラスチック・ビジネス─健康・環境・バイオ資源の問題」

 



―2008年2月6日版―

【キーワード:巨大国際NGO×緊急支援×援助の妥当性

●漁業を営むコミュニティーには、しっかりとした管理のための仕組みが備わっている。捕れたものをきちんと平等に分配できるようにし、乱獲も防ぐために、海の恵みをどう利用していくのかを定める複雑な決まりが存在するのだ。コミュニティーにおける舟の所有者数と漁船員数の割合や、伝統的な木製いかだ舟の数と近代的なグラスファイバー製船外機付き舟の数の割合には、微妙なバランスがある。
[NIJ補足]2004年12月26日に起きたスマトラ島沖地震により、インドのタミルナドゥ州のナガパティナムも大きな被害を受けた。そこにはもちろん海外から多くの支援の手がさしのべられ、巨大国際NGO(BINGO:Big International NGO)もたくさんの資金、物資、人を投入した。しかしその支援が、地域の歴史や行政機構やコミュニティーの仕組など、地域事情を配慮したものであったのかは疑問が残る。

●巨大国際NGOは、以上のような伝統を無視し、自分たちの基準に照らして最も貧しい人々、つまり、舟を持っていなかった人々に舟を与えることを決定したのである。BINGOだけでなく地元のNGOも、初めて足を踏み入れたコミュニティーであるにもかかわらず、自分たちが誰よりもこのコミュニティーのことをよく理解していると思い込んでしまったのだ。

●NGOやNPOなどは、人権、民主主義、透明性を求めて政府と闘っている。しかし、自らの行いを振り返ってみれば、実際にこのような価値観をきちんと尊重して責任を果たしているBINGOはほとんど見あたらない。

●最も多く耳にした批判は、BINGOはインドの非営利セクターの成熟度、政府の能力、地元のコミュニティーの寛容さを理解できていなかったというものである。アンドラでのサイクロンやグジャラートやバングラデシュでの災害で活動したグループは、津波から2日以内にナガパティナムに入り、地元のタミルナドゥ政府と協力して活動を始めていた。ナガパティナムの災害復興支援を実施した優れた公務員の例を考えれば、自らのお粗末な活動にNGOも恥ずかしさに顔を覆うしかない。

 →「津波災害視察観光と復興ビジネス」より
2005年10月号「BINGO! - The Big Charity Bonanza」p20-21)

 


―2008年1月28日版―

【キーワード:コロンビア×障がい者×女性

●自分がどうしてこんなふうに生まれたのか本当のことが分かったのは、つい去年のことだ。染色体異常が原因で、口、手、左足に形成異常を持って生まれたことを、私は今では知っている。しかし何年もの間、私を含めた家族の誰もが、母が妊娠中に飲んだ強い感冒薬が原因だと思ってきた。現在私は36歳だが、母はやっといくらかほっとして、何年にもわたる罪の意識と自責の念から解放され始めた。

●コロンビア社会では、身体に障がいを持った娘を受け入れるのが難しいのは、女性よりも男性の方である。この社会には根強いマッチョ(男らしさを強調する)文化があり、健康な子どもをもうけそこなった男は男としてふがいないという考え方が広まっている。

●法律には、すべての学校が障がい児を受け入れ、その子どもたちに必要な措置を講ずるよう定められている。しかし実際には、障害のある子どもたちがとにかく精一杯自分でがんばるようにと言われ、教室で放っておかれるだけの場合も少なくないことを私は知っている。公立の学校に行けば、障がい児のために必要な対応をしてくれるところなどはない。母親が障害のある子どもを家に置いておくことを選ぶのは、このような理由がある。

●今までに数名のボーイフレンドとつき合ったが、いずれも真剣な付き合いではなかった。現在も男性の親しい友人はたくさんいるが、彼らは私を性的な対象とは見ていない。障がい者には性的欲求はなく、セックスとは無関係の存在であると考える人たちがいるのは間違いない。私は、人が同情から私と一緒にいると考えたり、周りの人が私と一緒にいる男性を清く優しい男性に違いないと思っていると考えたりしてしまうため、よく自己嫌悪に陥っていた。そんな風に考えないように、自分自身しっかりしなければならなかった。そんなこともあり、男性と長く付き合うのは難しいということが分かった。男の人が、多少でも義務や同情からではなく、私のことを本当に認めて一緒にいてくれるのかどうかを知るすべはないからだ。

●この国で障がい者のことが社会的に取り上げられるようになったのは、本当にここ10年あまりのことだ。それは、事故に遭って麻痺になり、それ以来車椅子を使っているコロンビアの上院議員Jairo Clopatoskyのおかげである。Jairo Clopatosky上院議員は、政治家や世間の意識が高まるよう促し、改革を推し進めてきた。1997年には、税控除や年金などの経済支援策のための一連の法案が議会を通過した。しかし、実際にこうした改革の恩恵を受けられる障がい者は多くはない。


●私は英語を話せ有名大学卒で、経営学と会計学の立派な学位があるというのに、仕事を見つけるのは本当に難しかった。面接を受けるところまでは難なく進むが、実際の私の姿を目の当たりにすると状況は一変する。手に障害があるため、自分の履歴書さえ満足に書けないと思うらしい。健常者より高い経費を健康保険にかけてまで、障がい者を進んで雇おうとする雇用者などほとんどいない。

●「障がい者の発展のためのコロンビア協会」の女性委員会の代表として、私は障がい者たちが集い、互いの経験を分かち合うことが重要だと考えている。私は障害のある友人と一緒に、障がい者女性のために会合を毎月開き、地元での支援者ネットワークづくりに努めている。また、長々と続くお役所的な手続きを乗り越える必要はあるが、政府からの支援を受ける資格があると思われる障がい者への支援も行っている。

●私が障害を持つ女性として直面する問題は、私自身に起因する問題というよりも、他の人々の障害に対する態度が原因となって生じている問題である。私の挑戦は、障がい者として自ら進んで行動し、自立した生活を送り、人々の偏見を変えるためにできるだけの努力を払い、他の人も同じような行動を起こすよう励ますことである。

 →「積極的に生きる」より(2005年11月号「Disability in the Majority World」p20-21)

 


―2008年1月24日版―

【キーワード:スリランカ×内戦×非暴力的解決

●……2003年8月の夜、親たちには別れを告げるチャンスも与えられないまま、眠っている子どもたちが合わせて26人、LTTE(タミル・イーラム解放の虎)にさらわれた。
 これは何も目新しい出来事ではない。スリランカの東部海岸地域では、毎年およそ300カ所で寺院祭が行われているが、LTTEは新兵補充の中心的な手段として、その会場から子どもを拉致するという行為をいまだに続けている。

●2002年2月22日、停戦合意が成立した。それまでの19年の間LTTEは、北部と北東部において自らの支配権を確立するために、シンハラ人に牛耳られている中央政府と戦闘を行ってきた。停戦合意成立以来、公式には戦闘は行われていないが、LTTEがいまだに新兵として子どもたちをさらっていくように、紛争が終わっていない証拠はあちこちで見られる。

●しかしながら、タミル人は事実上自分たちの国をほぼ手中にしている。南部から北部へと抜けていくと、スリランカはもう既に分断されているかのように感じられる。北部にはビジネスの主要拠点は存在せず、主な取引は非タミル人地域に限られている。そしてLTTEは、自分たちで税金の徴収さえ行っている。

●UNICEF(国連児童基金)の記録によれば、LTTEによる子どもの拉致事件は、停戦協定調印後の2年半で3,516件起きている。しかし、この数字は氷山の一角でしかないと考えられている。(*) LTTEの兵隊のうち、推定で60%が18歳に満たない少年少女であり、さらにそのうちの30%が女子である。中にはたった8歳の子どももいる。

●タミル人の親であれば、そのような犠牲を払うことを期待されているのは誰でも分かっていることだ。“運動”を進めていくための子どもたちなのである。中には喜んでその犠牲を払う者もおり、特に内戦中にはその傾向が顕著である。

[NIJ補足]タミル人たちは、自分と子どもたちが直面するどうしようもない根強い差別を解決するための数少ない方法のひとつが戦闘であると考えている。政府関連の仕事は主にシンハラ人に与えられ、北部と北東部には職を生み出すようなビジネスはほとんど存在しない。南部へ移り住むことは選択肢にはない。なぜならば、タミル人はシンハラ語を話さないため、それがさらなる差別を生むからである。その一方で、そのような子どもの犠牲は大きすぎると反対する親がいることも事実で、非暴力的な手段に訴える人々もいる。例えば、LTTEの軍事施設の前にいる警備兵に対し、論理立った言葉による抗議を行い、軍事施設の中にいる兵士にも彼らの存在が分かるよう抗議の意思を表すなどである。

●内戦で苦しんでいるどの国もそうであるように、この国の内戦の事情は幾重にも折り重なっている。
[NIJ補足]シンハラ人たちは、自らの民族が支配する政府に反旗を翻す。タミル人が祖先から受け継いでいる土地であるとLTTEが主張する地域では、ムスリムとタミルのコミュニティー間の争いが起きている。さらに、5世紀の間続いたポルトガル、オランダ、英国の植民地支配がスリランカの人々に残していった、権威主義、差別、抑圧という心理的要因も絡んでいる。

*Human Rights Watch, Living in Fear - Child Soldiers and the Tamil Tigers in Sri Lanka, New York, November 2004, Vol 16 No13.

 「これからの非暴力活動」より(2005年8月号「The Challenge to Violence」p26-27)

 


―2007年12月30日版―

【キーワード:カースト×移民×差別

●インド人の移民が欧米諸国に定住するようになったのは、1950年代からである。当初、カーストが問題になることはあまりなかった。それは、移民の多くを占めていたのが、下位カースト出身の人々だったからである。恐らく高位カーストの人々は、多くの敬虔なヒンズー教徒が規範とする古代マヌー法典に従っていたのだろう。古代マヌー法典は、厳密に解釈すれば、高位カーストの者が生まれ故郷を離れて暮らすことを禁じている。しかし、移民のコミュニティーが大きくなるにつれ、カーストの違いもあらわになっていった。

●彼は、ヒンズー教について書かれた英国の教科書を見せてくれたが、そこにはカーストに対するいかなる異議も唱えられていない。「もし私が教科書を書くなら、カースト制度はヒンズー教社会の一部ではないと最初に指摘します。そして、カースト制度は人種差別の現れであり、容認できないものである、と書くのですが」
[NIJ補足]英国在住26年で、英国内のカースト差別に取り組む団体「カーストウォッチ・UK」を2003年に立ち上げた創設メンバーのひとりであるダヴィンダー・プラサドの言葉。ヒンズー教徒は、世界のどの国へ行ってもカーストの概念に疑問を持つことなくその枠組みの中で暮らしているという指摘。

●ある男性は、自身の出身カーストよりも高位のカーストに属する姓を名乗っていた。一緒に暮らしていた人々は、彼に仕事を見つけてやり、援助や励ましなどできる限りの支援をした。しかし数カ月後、彼の本当のカーストが会話の中でばれてしまった。周りの人々は、彼の出身カーストが今まで名乗ってきた姓のカーストよりも低いことに気づいてしまったのである。このことが知れるや否や、彼は冷遇されるようになり、周囲の人々から完全に拒絶されるようになってしまった。これまで彼が頼ってきた支援は突如としてなくなり、職を失い、とうとう別の滞在場所を探すはめになった。

●「人々はいまだにカーストについて話題にするし、結婚するとなるとカーストのことを持ち出してきます。そして大抵の場合……自分より下位のカーストの人とは結婚したがらないのです」
[NIJ補足]英国の結婚仲介会社の担当者の言葉。

●英国の結婚仲介会社の担当者は、カーストの壁を越えて結婚する人は25%にすぎないと述べた。


●サンフランシスコにあるカリフォルニア統合学研究所の社会文化人類学部のアンガナ・チャタルジー教授は、そのようなグループ[訳注:インドの右派グループ]は、「極右の宗教的で非民主的な民族主義運動をインドで組織するために、宗教を利用して民族、人種、カースト間の暴力を扇動している」と説明する。
[NIJ補足]近年米国では、カーストをベースにしたグループが組織されている。その中には、インド国内の政治・宗教グループに資金援助を行っているグループもあり、その資金の一部はヒンズー教極右グループにも流れている。このような資金援助は、カーストによる分離という現状認識を強化するだけでなく、ヒンズー教極右グループ台頭の原因となり、宗教間対立の激化をもたらし、下位カーストや女性など弱者への差別が正当化される恐れがある。

●ダリット連帯ネットワークの手により、ダリット国際ニュースレターが米国のコネチカット州と英国で発行されている。1998年10月には、世界初のダリット世界会議がクアラルンプールで開催された。この会議では、マレーシアのMG・パンディサン上院議員が議長を務め、大勢の移民代表はもちろん、インドのダリットのリーダーまでもが一堂に会した。
[NIJ補足]カーストにも含まれない最下層の人々は「不可触民」や「アンタッチャブル」と呼ばれ、激しい差別を受けている。彼らは、自らは「ダリット(Dalit)」という呼称を使用している。カースト制度や、社会身分や門地による差別に立ち向かう運動は、欧米だけでなく、世界各地に広がりを見せている。

●英国のウルバーハンプトンにある工場の作業場では、いわゆる高位カースト出身の女性たちは、低いカースト出身者が使う蛇口から水を飲むことはない。

 「まとわりつくカーストの意識」より(2005年7月号「Caste - the hidden apartheid」p14-15)

 



―2007年12月6日版―

【キーワード:ウラン×アボリジニ×環境保護運動

●オーストラリアのさまざまな地域で、アボリジニ[訳注:固有の民族名ではなく、オーストラリアの先住民族全般を指す]の人々は、原子力産業への強い反対を表明し、ウラン採掘企業に対しても反対行動を起こしている。また彼らは、産業拡大の「同意」をコミュニティーから引き出す企業や政府機関のやり方についても綿密に調査している。アボリジニのコミュニティーは、所有権を奪われたり不当な扱いを受けたりしながらも、オーストラリア社会の幅広い人々をこうした行動に関与させ、それは驚くべき結果にも結びついている。

●オーストラリア南部、岩場の多い土地にフリンダースレンジはある。その地域にはアドニャマダナ民族が住むが、彼らの間では、東側のいくつかの地区で、エミュがすえた臭いのする黄色いものを吐き出すという話が語られている。彼らはそのような地区を可能な限り避け、東風が吹いている時は「身を低くしろ」と注意し合っていた。アドニャマダナの人々は、その黄緑色をした有害物質を掘り返すことは、自分たちやその土地、そしてまた人類全般にとっても非常にリスクが高いと信じていた。そのような地区に対する注意を促し、敬意を払う必要性を説いた言い伝えは代々受け継がれ、アドニャマダナ民族の母なる大地と先祖に対する尊敬の念に影響し続けてきた。しかし、利益の大きいウラン採掘を追い求める連中は、アボリジニの土地に敬意を払うことはなかった。採掘会社の代表者が先住民コミュニティーフォーラムで次のように発言した。「我々がここに来たのは、ウランを採掘するためです。それが我々の主要な目的です」

●世界の動向や経済的利益が追い風となり、1930年代のオーストラリア南部のラジウムヒルでの採掘を契機に、オーストラリアのウラン産業の拡大が始まった。最初の主要鉱山は、北部にあった国有のラム・ジャングル鉱山で、1954年から1971年まで採掘が行われていた。オーストラリアは、原子力発電施設を保有していないにもかかわらず、世界の原子力発電産業への主要ウラン供給国として台頭した。今日オーストラリアの埋蔵量は、世界の採掘可能なウラン埋蔵量の約28パーセントを占め、ウラン採掘量の世界シェアは約20パーセントに上る。

●1950年代、ロバート・メンジーズ政権は、後に悲惨な結果をもたらすことになるオーストラリア国内での英国の核弾頭実験を許可した。そして南部に住んでいた一部の先住民族は、家畜のようにトラックに乗せられみすぼらしい一時避難場所へと連れて行かれた。一方、そこに住んでいることに気づいてもらえず、警告を受けられなかった人々もいた。警告の掲示は英語のみで書かれ、500km四方の地域の住人に対してそれを知らせる役目を与えられた担当者は、たったひとりだけだったのである。実験後、周辺地域の人々は、巨大な煙が彼らの頭上を渡っていき、その後に目の痛み、下痢、むかつき、嘔吐の症状が出たと語っている。多くの人々が死亡したが、放射能に関係する子どもたちの病気は現在でも見られ、実験の後遺症はいまだに残っている。

●1950年代の核実験に続いてウラン採掘が行われた。そして現在では、核廃棄物処分場を建設する提案が政府から出されている。この提案をめぐっては、母なる大地に対する政府とアボリジニの完全に異なる見解が再び浮き彫りになった。つまり、政府と多くの一般のオーストラリア人にとっては、砂漠は不毛の荒地である「辺境地」であり、そこは荒涼とした何もない場所で、兵器の実験、ウラン採掘、核廃棄物を捨てる場所に適していると見なされる。しかし、この土地を故郷として脈々と何世代にもわたって受け継いできたアボリジニとっては、自らの歴史、文化、暮らしが現在も生き続けている場所なのである。


●2005年6月、オーストラリア南部に核廃棄物処分場を建設する政府の計画案は撤回され、アボリジニの活動は成功を収めた。


●「政府は当時、自分たちが何をしているのか分かっていた。そして今、政府は再び我々貧しいアボリジニの前に現れ、『これからは何事も起こらないし、何もあなたたちを殺したりはしない』と言う。しかし、あの核爆発のようなことは、これからも起こりうるのだ……。我々はこの放射性廃棄物という有害物質と何年にもわたり闘い続けている。この問題について議論し、一般の人々に語りかけ、助けを求める。彼らは我々を救ってくれるかもしれないが、実際にはそれは彼ら自身のためにもなることだ。白人たちにも子どもがいるし、我々は皆、この国で生きていかなければならないからだ」
[NIJ補足] これは、1950年代に政府の許可によって行われた核実験を経験し、周りで多くの人々が病気になったり死亡したりしたアボリジニの女性の訴え。

●母なる大地に暮らすというアボリジニの考え方は、その場所を「荒野」として見捨てる考え方の対極にあるものだ。アボリジニは、環境保護主義者たちが持っていた環境問題の文化的側面と社会的側面に対する見方を、より幅広いものにした。それによりオーストラリアの環境運動は、より粘り強く、より高い自覚と以前よりも強固な基盤を持ち、公正という価値観を根幹とした運動へと成長した。アボリジニは、土地を守るための権利と義務を主張することにより社会・環境運動を超越し、持続可能性のない産業や、土地に関する既存の考え方に挑戦しているのである。気候変動の解決策として原子力産業の売り込みが続くなか、オーストラリアの「環境保護主義者とアボリジニ」の協調は、そこにある落とし穴を回避し、人と地球に甚大な被害をもたらした有害物に対して強い反対を表明し続けていくだろう。

 「汚される神聖なる大地」より(2005年9月号「Nuclear's second wind」p18-19)

 



―2007年11月3日版―

【キーワード:アルゼンチン×独裁政権×行方不明の子どもたち

●2004年3月キルチネル大統領は、拷問施設として使用されていた、かつてラテンアメリカ最大の強制収容所である海軍機械学校(ESMAとして知られる)を、「記念博物館」にすることを承認した。

●クイズ2
軍事独裁政権に支配されていたしていた 1976年から1983年の間、弾圧(誘拐、拷問、暗殺など)によって行方不明になってしまった人はアルゼンチン全体で何人に上ったのでしょうか?

  (1)約1万人    (2)約2万人    (3)3万人以上               答え


●ファンの母アリシアは、ほかの多くの妊婦たちとこの建物に捕らえられていた。妊婦たちは、出産の後には赤ん坊を軍部に取り上げられ、中には殺されたり、麻薬漬けにされたり、ラプラタ川(プレート川)に投げこまれたりした人もいた。

●現在27歳になるファン・カバンディは、おそらく400人ほどいたと思われるそのような“盗まれた子どもたち”のひとりだった。2年前までは、ファンという名前では呼ばれていなかった。彼の両親がESMAに拘留されていたことは、“盗まれた子どもたち”の捜索に力を尽くしてきた組織「グランドマザー・オブ・ザ・プラザ・デ・マヨ(5月広場の母たち)」がDNA鑑定で確認した。息子にファンという名前をつけたがっていた母親のアリシアは、その当時まだ17歳であった。ファンはこの時を自分の出生の日と呼ぶ。
[NIJ補足]マヨ広場のおばあさん/5月広場の母たち(Asociacion Abuelas de Plaza de Mayo / Asociacion Madres de Plaza de Mayo): アルゼンチンの人権保護団体。軍事独裁政権下(1976-1983年)の政治犯強制連行により行方不明となった子どもたちの捜索を目的として結成された組織。行方不明になった我が子たちを捜す母親や祖母たちが、首都ブエノスアイレスの大統領府前にあるマヨ広場(5月広場)に集まったのが始まり。それが定期集会となり、ひとつの目的を持った団体としての活動するようになり、やがて人権を守る組織へと発展していった。しかし、身元が判明した子どもは100人に満たず、軍部(誘拐犯)が押しつけた養子縁組や偽りの身分で暮らし、実の親や祖父母さえ知らない(知る由もない)者がいまだに多く残る。現在の活動は教育の場へも広がり、今後もアルゼチンの発展に多いに貢献していくことであろう。
http://www.abuelas.org.ar/english/

●「そして、途方もない考えが頭をよぎった」ことをファンは思い起こす。「初めて、『もしかして僕は行方不明の子どもなんじゃないか』って考えたよ」。彼の抱いた疑いは2年続いた。「『5月広場の母たち』が僕の『出生』を明らかにしてくれた日、『僕はゴールにたどり着いたんだ。自分探しの終点というゴールに。僕は間違ってなかったんだ』と自分に言ったよ。それに、身元が明らかになることは、自分の人生の中の大切なつなぎ目でもあったんだ。その日からまた、より深い悲しみや新たな苦悩と向き合っていくことになったんだ」
[NIJ補足]ESMAで「盗まれた」ファンは警察官の家の養子となり、その人を20年以上にわたって父親だと信じて育った。育ての父の影響を受けた彼は、保守的な考え方を持ち、生みの親とは正反対の価値観に染まり、19歳の時にはほとんどファシストのようだったと自ら語っている。しかしある日、ESMAの真実に関するテレビ番組を見てからその価値観が揺らぎはじめ、「5月広場の母たち」の主張に次第に耳を傾けるようになり、気がついてみると自分で5月広場に出かけるようになった。

●7月、連邦裁判所と人権保護団体が支援する法人類学者のチーム(EAAF)は、ついに「5月広場の母たち」の創設者アズセナ・ビリャフロールの遺体を見つけ出して確認した。1977年、行方不明になった息子を捜していたアズセナは誘拐されてESMAへ連行され、その後に軍の飛行機から海へ放り投げられたのだ。これは、「死のフライト」に対する初めての科学的立証であった。「死のフライト」で殺害されたのは、ほとんどがESMAから連れて行かれた者たちだった。

[NIJ補足]EAAF (Equipo Argentino de Antropologia Forense) The Argentine Forensic Anthropology Team:アルゼンチン法人類学チームは、アルゼンチンの非営利の民間科学組織である。法人類学と考古学を中心に、アルゼンチンそして世界中で、人権侵害に関する調査を行っている。EAAFは1984年、アルゼンチンの軍事独裁政権下(1976-1983年)で政治犯として1万人もの人々が行方不明となった事件を調査するために設立された。現在は、南米、アフリカ、アジア、そしてヨーロッパにおいて、(1)調査プログラム (2)トレーニングとアドバイス (3)科学的発展 (4)フィールド強化 (5)文献情報活動と普及の5つの包括的プログラムを実施している。「5月広場の母たち」の14人の創設者のひとりで、政治犯として軍部に殺害されたアズセナ・ビジャフロール・デ・デ・ビンセンティ(Azucena Villaflor de De Vincenti)の遺体を調べ、高所から水面に叩き付けられた「死のフライト」の事実を立証し、人々を震撼(しんかん)させた「死のフライト」の根拠を科学的に証明してみせた。また、このアルゼンチン法人類学チームは、ボリビアでチェ・ゲバラの遺体を発見し、確認したことでも知られている。
http://www.eaaf.org

 「憎しみと再生」より(2005年12月号「The Search for Truth - justice after genocide」p10-11)

 



―2007年9月5日版―

【キーワード:国連×排出権取引×企業の影響

●「将来我々は、今日という日を、人類がその責任に真正面から取り組んだ日として回想することになるだろう」。国際環境保護団体グリーンピースは、ロシアの京都議定書批准決定をこう賞賛した。また、当時のコフィ・アナン国連事務総長は、ロシアの決定を「地球規模の脅威と戦う世界各国の努力を着実に前進させる歴史的な一歩だ」と、述べた。
[NIJ補足]2004年11月、ロシアは京都議定書を批准し、2005年2月16日に議定書が発効した。


●事実、私たちが直面している現在の状況は、本当に悲惨なものである。北極に関する新しい研究によって、過去30年で平均気温が4.4度上昇し、平均的な氷の厚さが半分になってしまったことが明らかになった。別の報告によると、北極の大気中に原因不明の二酸化炭素濃度が異常に高い部分が発見され、元来地球が有している炭素循環サイクルの限界を、現在の二酸化炭素排出量が超えたとの懸念が高まっている。

●国連が産業界の圧力に屈服し、企業活動を規制する試みを取り止めて間もないが、企業とのパートナーシップに基づく新しい倫理観が定着し始めている。国連貿易開発会議(UNCTAD)は、排出権取引が気候変動に関する国連の政策立案の中心となることを確実にするため、企業ロビーグループを設立した。企業によるロビー活動がいかに効果的であるかということは、これを見れば明らかである。これまで、交渉で最も活発に動いてきたロビーグループのひとつが国際排出量取引協会である。世界でも最悪の環境汚染企業(例えば、BP、シェル、ユノカル、ラファージュ、デュポン、シェブロン・テキサコなど)がそのメンバーとなっており、企業活動に好都合な政策が各国政府の行動の中核となるよう精力的に活動している。この協会の成功は国連に負うところが大きい。

●企業は、一見環境保護に真剣に見えるが、実際にはその外見ほど環境保護的ではない。企業が行っていることは、市場から利益を得るための新しい方法を探し、カーボンヘッジファンドや「排出権の仲介」サービス、炭素派生商品取引、気候取引所、そして今日世界を席巻している金融や資本に関連する活動なのである。
 温室効果ガス取引の仕組みを世界で初めて構築した英国では、取引に参加するための「奨励金」として約5億ドルもの税金が企業に渡っていた。悪名高い汚染企業が、数億ドルにも上る寛大な税金控除と怪しいカーボンクレジットの販売から得た利益を受け取っている。英国でのこの経験は、今後起きるさらにひどい事態への予兆なのかもしれない。



 「大空にも限界はある」より(2005年1/2月号「The sky's no limit」p18-19)

 



―2007年7月14日版―

【キーワード:環境破壊×カスピ海

クイズ1
旧ソ連が初めて核実験を行ったカザフスタンでは、旧ソ連時代に何回の核実験が行われたでしょうか?

  (1)80回    (2)470回    (3)790回               答え


●ある程度の規制が有効に機能していた時には、有名なカスピ海のチョウザメは世界のキャビアの大半を難なく供給していた。しかし1991年以来状況は変わり、チョウザメの数はかつてないほどに減少している。ボルガ川の重金属汚染は15年間悪化を続け、銅・錫・鉛・カドミウム・水銀の濃度はすべてカザフスタン政府の定める基準の5倍以上となっている。多くのチョウザメに筋ジストロフィーの症状が見られ、その肝臓奇形は今やカスピ海のチョウザメに特有の病気となった。
[NIJ補足]カザフスタンは1991年独立したが、それ以来カスピ海沿岸では多国籍企業による石油採掘が続いている。

●カシャガン油田で掘削が始まった2000年、鼻や耳から血を流して死んだ推定1万1,000頭のアザラシがカスピ海北岸に打ち上げられた。イタリアのアジップ社を中心とする多国籍コンソーシアムはこの現象を憂慮し、費用を負担してロシアの大学に調査を依頼した。その結果アザラシの死は、犬ジステンパーに感染したことによるものであることが明らかになった。また、死んだアザラシは、犬ジステンパーに対する免疫力が異常に低下していたことも判明した。

●カスピ海東岸は、毎年イランと西シベリアの間を移動する200種以上の鳥の渡りルートになっている。春の渡りの時期、ウラルデルタで1平方キロメートルあたりに6,500羽という密度が記録されている。しかし渡りの白鳥ばかりでなく、ここを生息地とするフラミンゴやペリカンもここ10年以上にわたって数が減少しており、最近国の絶滅危惧種に指定された。

 「エッセー:北カスピ海の将来」より(2005年11月号「Disability in the Majority World」p30-31)