魔術的思考と政治家の幻想 Magical thinkers
New Internationalist No.405
October 2007 p18-19
政治支配層の魂に非常に大切なものとされる幼稚化された考え方の正体とは。


紆余(うよ)曲折の歴史がある精神分析は、人間の行動に関するある種の想像上の理解を私たちに示してくれる。それは必ずしも「真実」である必要はないかもしれない。しかし、それは今では多くのことを説明するのに役立っている。実際、精神分析による説明は、これまで非常にうまく事象にあてはまってきた。そのため広告業界と現代国家においては、精神分析が理論的に重要な位置を占めるようになった。超個人主義を常に助長する幼稚化された自己陶酔文化の広まりが、精神分析にその地位を与えたのである。人々はそそのかされ、自分の感覚を支配する外見の記号学(ラベル、ブランド、タトゥー(入れ墨)、髪型)を保ち続けるために、経済的依存状態に置かれた。この地球上で最も影響力があるテレビ番組が「シンプソンズ」というマンガだと聞いても驚きはない。そして私たちは、「判断を下して名前を付ける」能力が、ある種の支配力を授けるということを信じるようになった。

一般的な精神分析の理論では、この種の考え方は「魔術的思考(magical thinking)」として知られ、そこには2種類の考え方がある。ひとつは、「論理的で言葉という体裁をとり、現実の規範に従って機能するもの」。もうひとつは、「未熟、抽象的、不可思議で、快楽の規範に従って機能するもの」である。白昼夢(非現実的な空想)はまさに後者のタイプで、苦しい現実の代わりにましなものを与えてくれるものだ。これには不思議な動作も含まれる。例えば、恥ずかしさを感じた場合にとる目をそらしたり目を手で覆ったりする動作は、誰も自分を見ていないと思い込むためにとられる。自分から見えなければ相手からも見えないと子どもたちが本気で信じ込むのも同じ考え方だ。オットー・フェニヘル(The Psychoanalytic Theory of Neurosis, 1946)は、ある子どもが、「車掌が目を閉じると電車がトンネルを通ると考えていた」ことを例に挙げた。つまり、電車が暗闇に突入していくことに(守護者のような)車掌の行為と力が反映されているのである。子どもにとってこれは魔術的思考(つまり、もしも自分が目を閉じていれば、自分は周りからは見えなくなるということで、同様に、車掌が目を閉じれば、世界には暗闇が訪れるという考え方になる。)である。とっぴな感じがするかもしれないが、どんな常識人も抱える問題である。

架空の世界

魔術的思考は、「一次過程」(無意識の領域で行われる思考)の一部として考えられている。この過程では、抽象的または「架空」のイメージがまるで真実のようにとらえられ、現実味を持つようになる。従って、人は何かを考えることで、まるでホログラムを離れたところから見たような感覚となり現実味を帯びてくる。もやもやした考えが何か具体的でしっかりしたものになり、テレパシー(他人の考えを読み取ったり、他人の考えていることを身体的に自分の頭で経験したりすること)やテレキネシス(念動力)の認識が生まれてくる。つまり、考えるだけで何かが起こるということで、例えば、「もしも後ろの車に追い越される前に私の車があの街灯を通過すれば、私のがんは治る」などと考えてしまう。より広い政治レベルでは、優れた政策で倫理的にも配慮されたものであれば、結果はどうあれそれは良い政策である、などということになってしまう。

人々はなぜこのように考えるのだろうか? 人間の成長の核心とは、これまで見てきたような未熟な思考パターンを脱し、自分の周りの現実に基づいて反応することである。それができない場合には、人は不満をため込み、考え方、他者との関係性、行動において未熟なままである。研究者などの中には、人間は不可解な生き物であるとして何十年にもわたって精神分析の研究に打ち込んでいる人もいる。しかし、もしも魔術的思考が、現実に対する心理的な防衛策の一種であると考えれば、その仕組みが見えてくるようになる。そのような心理的防衛策は、例えばとらえ所のない確信といわれなき恐怖をつくり出すことが可能である。

これが極端な場合には、もちろん「自我異和的(ego dystonic)」[訳注:自我非親和性とも呼ぶ](自分が本来持っている感じ方という実際の意識に従わない状態)となり、自己の意識から乖離(かいり)して実際に精神障害をきたす恐れがある。これは、統合失調症(俗に言う精神「分裂」病[訳注:この病名が誤解を与えるという理由で、2002年から統合失調症と病名が変更された])など深刻な精神障害の所見のひとつである。幸いにも、ほとんどの人々はそこまでの状態になることはない。現在、そうなってしまうのを防いでいるのは、ポストモダンによって創り出された個人的スタイルの多様化で、人々はまさに自分のファンタジーの中に住むことができる。パソコンのフォルダに見られるような「My Computer / My Music / My Documents / My Space」等々は、サイバースペースを支配する理性的法則となっており、ビル・ゲイツと仲間たちが引き続き率先して私たちを高い能力と完璧な美しさに飾られた幼稚化された世界に仕向けていく場となっている。Sims[訳注:シムという主人公の生活、仕事、恋愛などをシミュレーションするコンピュータゲーム]とセカンドライフ[訳注:ネット上の3D仮想空間に自分の分身を作り、現実世界のような生活や人との交流、商行為などを体験できるシステム]は、ゲームするあなた自身となり、あなたが支配者となる。

このような子どもじみたパターンの思考と行動に頼っても、ほとんどの人はそれによって害を受けることはない。むしろそのような依存は、極地の氷の溶解や中東の残忍な事件のような最も恐ろしいたぐいの出来事に対する防御手段にさえなっている。私たちは目を閉じ、意識を他の場所に置くことができる。例えば、脳の中を跳ね回るMDMA[訳注:エクスタシーとも呼ばれる覚醒剤]による興奮、そしてこのセロトニン[訳注:精神状態に影響する神経伝達物質]が引き起こす魔術的思考は、父親に両手を持ってメリーゴーランドのように回される子どもが感じるような物理的な開放感へと導く。スキー、サーフィン、バンジージャンプは、この「ワーッ!」という感覚を崇拝する哲学の本質で、命知らずの挑戦によって生を感じるものだ。従って、現代の政治家が未熟な思考スタイルと関連し、未熟な盛り上がりに巻き込んだり(誰の賛同も得られない場合に英国のトニー・ブレア前首相が行うと評されていた)、米国のロナルド・レーガン元大統領流の複雑なものは全く読み上げないというやり方によって、非常に安易に幼稚化した態度を見せても驚きはしない。シンプソンズの映画では、政策原稿を読み上げるのに詰まった大統領(当然だが、アンドロイドのアーノルド・シュワルツネッガーのキャラクターが演じる)が、「私は、この国を率いる(lead)ために大統領になったのだ。読む(read)ためではない」と言うシーンがある。

英国(またはカナダやオーストラリア)の議会が、そこにいる人々すべてを幼稚化していく過程には驚くべきものがある。学校と似たような会期と休暇、そして校庭で遊ぶときのような秘密のルールが存在するだけでなく、馬鹿騒ぎも推奨している。首相の疑問(最近ラジオとテレビで毎週放送されている番組)から飛び出してくる不思議な叫び、うめき、わめきは極度に未熟である。首相は、特別な(魔法のようでさえある)任免権を持つボス(または役得がある番人)のようなものだ。首相は気まぐれで閣僚を首にするが、首になった閣僚はいなくなる(見えなくなる)ので自分の邪魔をすることはないと考える。出来事が起こる前にニュースが伝わってくることさえもある(「午後の談話でブラウン氏は、……と述べるだろう」)が、それは大したことのない話をさもすごいことのように見せるための方策である。「親愛なる指導者」の言動は、何か考えがあってのことだろうが、そのまま妄想の中の夢の国に向かって進んでいくのである。

米国や英国の状況を見れば、これらの国の過去20年の大統領や首相のほとんどが正気ではなかったことが明らかである。「社会などというものは存在しない」というマーガレット・サッチャーの言葉は確かにその証拠であるし、トニー・ブレアは、子どもっぽさが残るためらいがちな話し方や自身の運命を考えすぎるきらいを持ち、「バックギアを持たない」と発言したことから、自分が過ちを犯すはずはないと思っている。ロナルド・レーガンのあか抜けない様子、パパブッシュのゆがんだ「展望」、ブッシュジュニアのネオコン幻想と彼の取り巻き連中は、子どもじみた善悪にあてはめて区別する世界観を反映している。単純化して言えば、誰もが彼らを格上の存在のように思っている様子があり、そのために彼らは正しいはずであり特別な知識を持っていることになる。込み入った論理的な主張や議論は必要ない。文字通り考え方は視覚的にとらえられ、言葉の意味を明快にするよりも物事を正しいように見せることに力が注がれる。

摩訶不思議な言葉

フェニヘルは指摘する。「言葉によって殺すこともできれば復活させることもできる。奇跡を起こすこともできるし、時間をさかのぼることも可能だ。人が発する単に現実味の漂う声明によって、無意識ながらも強制的に、現実を望む通りの方向にその人が強引に持って行くことが可能だと他の人々は信じ込む」。言葉の生成はそれ自体で意味を持ち、政策やガイドラインをつくったり、意図の説明をしたりすればそれで本当に十分である。政治家は、意味が隠され力をほのめかす複雑な言葉の世界(それは徐々に無能力が積み重なって虚無の場所となっていく)に生きている。そのほかにも力の源泉となるものが現れている。それは、非民主的、悪名高きポストマルクス主義的な経営者層で、何を受容するのかという定義とともに姿を見せるMBA(経営学修士号)である。手に入れた資格と使命感、歴史の知識、現実的な考え方、不確実性の受容は、この新たな幼稚化された認識の中ではすべて致命的な罪である。

故イングマール・ベルイマン監督が映画『第七の封印』の中で描いた、死の本質、現実、死後の世界の不可知に関するその素晴らしい会話は、このような未熟な思考をいくらかぬぐい去ることを助けてくれるものだ。非常に示唆に富んだこの作品は、俳優、宗教、そして愚かな人々のうぬぼれを笑い、真実を確立する方法に関して考えることの重要性を指摘する。私たちの世界の理解の仕方に古くさい見方が再び現れることにはぞっとする。ほとんどの人々はそう思うだろう。しかし、おもちゃと満足の中毒にかかっている永遠の幼児期を超えて先に進むような明快なリーダーシップの不足も感じる。英国では、ゴードン・ブラウン首相がこのことにおそらく気づいているような気配がある。だが、人々を成長させ、原因と結果(自由連想の疑似科学のではなく)の真の姿を理解させ、難しい議論に再びかかわらせることは人気のある政策ではない。この映画の中で、ベルイマン流の笑みを浮かべる死神とチェスをする皮肉の効いた騎士は、真実とかかわっていく私たちの毎日のゲームへのおそらく第一歩ではないだろうか。


文:トレバー・ターナー
ロンドンを拠点にする精神保健の専門家




 


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